梅雨にも中休みがありそんな五月晴れのある日、ベランダのプランターに水遣りをしていると、キッチンに置きっぱなしの電話が鳴った
懐かしい下4桁をみた時一瞬躊躇ったけれど、結局、務めて明るい声で着信を受けることにした
「もしもし?・・・やぁ、久しぶりだね」
5分ほどの会話で覚えているのはつまり、「あのお店でまたランチをご一緒したくて」というその部分だけだったけれど、日時をしっかり書きこんだメモを見ながら胸に去来する思い出が痛みを伴わないことを確認し、カレンダーにピン止めした
カウンターに置いてあるセブンスターに火をつけ、ゆくっりと煙を吐き出した
国道20号線の銀杏並木は雨に打たれ、H市郊外に向かう車は軽いハミングを奏でている
武蔵野の雑木林が残るその一帯の片隅に、懐かしいその店はあの頃のままの佇まいで建っていた
傾斜のある駐車場に車を置き、君の赤いワーゲンを探してみたけれど、まだあの車に乗ってるわけはないなと苦笑いが出た
雨を避けながら一息に店の正面に走る
重い欅のドアを肩で押すようにして店内に入ると、少し年を取ったオーナーが片方の眉を上げる微笑で僕を迎える
「いらっしゃいませ」
「久しぶりに寄らせてもらいました」
バッハの流れる店内を奥へと進み、窓際のテーブルに向かう
スパイスの香りが心地よい
テーブルについてマルボロに火をつける
2本目のタバコに火をつけた時、スカイブルーのシトロエンが駐車場に滑り込んできた
切り返しを一回で決め、僕のクルマの隣に停車させ、淡いブルーグレイの傘が開き、君が降りてきた
「今日は間に合うはずだったのに、やっぱり遅刻だわ」
「なんだか安心したよ」
独自に調合されたスパイスの香りが清々しいマトンカレーとサラダ、揚げ餃子に似ているひよこ豆のサモサ、
食前食後のチャイ
あの頃と変わらないオーダーで遅めのランチが始まった
食後の会話を楽しみながらKOOLに火をつける
「変わらないのね、何種類も煙草を持ち歩く癖」
「あぁ、そうだね」
2時間ほど過ごした後、彼女は明るく手を振りながらシトロエンに乗り込んだ
雨はあがっていた
彼女へ結婚のお祝いを告げた僕は、まだ去りがたい思いにけりを付けるように、店内のスパイスの香りに負けないようなブラックストーンに火をつけた
こんなことがあるかもしれないから煙草はやめられない