二葉百合子 岸壁の母
みなさん(*^・ェ・)ノ コンチャ♪
先日の舞鶴出張の日記の続きになります。
発電所の仕事を終え少し時間があったので
舞鶴引揚記念館に行ってきました。
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舞鶴引揚記念館(まいづるひきあげきねんかん、英語:Maizuru Repatriation Memorial Museum)は、京都府舞鶴市にある博物館相当施設である。
昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結し、旧満州(現・中国東北)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されました。
これらの方々を速やかに日本へ帰国させなければならなくなり、“引き揚げ”が開始されました。呉をはじめ順次18港の引揚港が全国につぎつぎと設置され、舞鶴もその役割を担うこととなり、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となりました。
舞鶴では昭和20年(1945年)10月7日に最初の引揚船“雲仙丸”の入港から昭和33年9月7日の最終引揚船“白山丸”まで国内で唯一13年間にわたり約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れました。
舞鶴引揚記念館は、昭和63年(1988年)4月に舞鶴市民や引き揚げて来られた方々をはじめ、全国の皆様のご支援・ご協力によって開館し、再び繰り返してはならない“引き揚げ”の史実を未来に伝え「平和の尊さ、平和への祈り」のメッセージを発信しております。
当館には、シベリアの地で使用したコートなどの防寒着をはじめ引揚證明書などの文書類など全国から約1万2千点の貴重な資料の寄贈を受け、常設展示にて1000点を超える展示をおこなっております。←WEBより
続いて動画の岸壁の母についてです。
岸壁の母(がんぺきのはは)とは、第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。その一人である端野いせをモデルとして流行歌の楽曲、映画作品のタイトルともなった。

展示物を見ると当時かなりの困窮を強いられて様子がわかります。
紙や鉛筆がない為、白樺の皮をノート代わりにし
ペンの代わりに消し炭から色を取って文字を書き残されていました。

引き揚げ時に靴に隠し検閲の目をかい潜り持ち込まれたノートなどが展示されていました。

敗戦と同時に立場が逆転し強奪なども当たり前のように行われていたようです。
遺骨となり帰国された方も多数いたそうです。
なんか重たい日記になりました・・・(´・ω・`)
メンテナンスあけもどうぞ宜しくお願いします♪