ドイツのコーラ
コカ・コーラ社は1929年にドイツに現地法人を設立してドイツでのコカ・コーラ生産を開始した。不況期のスタートであり、1929年の販売量は5,840ケースに過ぎなかったが、ナチス・ドイツ政権下での売り上げと生産の伸張は大きく、1939年の販売量は450万ケースにまで激増する成功を収めた。しかし1939年の第二次世界大戦勃発によって、翌1940年、コカ・コーラ社ドイツ法人はアメリカ本国からコカ・コーラの原液を輸入できなくなった。
1938年からドイツ・コカ・コーラの支配人を務めたマックス・カイト(Max Keith)は、コカ・コーラの代替商品となる清涼飲料を求め、ドイツ・コカ・コーラの主任研究者ヴォルフガング・シェテリーク(Wolfgang Schetelig)らにより、炭酸飲料向けの新たなフレーバーシロップが開発された。これはリンゴジャム製造時の残渣と、チーズ等乳製品の製造工程中に生じる副産物の乳清などを原料に調合され、味は「果汁入りオレンジジュース : コーラ : レモンジュース を 0.375 : 0.375 : 0.25 位の割合で混合したようなもの」とされている。後年知られる「ファンタ」とは相当に異なったものであった。
ブランド名の語源はドイツ語「Fantasie」である。商品名を決める会議でカイトが「想像力(Fantasie)を使え」(英語で「空想」を意味するFantasyとは意味が少し異なる)と言ったのに対して、ある出席者から「Fanta」([faːnta])との即答が返ってきたことによる。
このように、最初のファンタは物資不足の中で作られた代用品飲料ではあったが、戦時中のドイツでは相当に受け入れられた。初期には甘味を得るためにサッカリンを利用せねばならなかったが、1941年には当局からテンサイ糖の供給を得られるようになり、砂糖不足のドイツでは料理用シロップの代用に使われたほどであった。またビタミンCとカフェインも添加された上で粉末ジュース加工され、戦地のドイツ軍にレーションの一部として支給された。ドイツでは敗戦後も1949年までコカ・コーラ原液の輸入が止まっていたため、ドイツ・コカ・コーラの経営を支えたのはファンタであった。この代替コーラとしてのファンタは、この味に慣れ親しんだ世代のドイツ人により「シュペツィ(ドイツ語版」という名称の飲料として残され
1955年、イタリア・ナポリのコカ・コーラのボトラー・SNIBEG社で、オレンジ果汁を配合した炭酸飲料が開発され、ドイツ起源の「ファンタ」の名が付けられた。これがいわゆる「ファンタ・オレンジ」の最初で、以後は、糖分、果汁、フレーバーや着色料を配合し、炭酸水で割った清涼飲料として、各国で生産されるようになった(生産国により、果汁を含まなければフルーツ名のドリンクとして販売できない国と、フレーバーや着色料のみで販売できる国があり、各国ごとに独自の調合が行われている)。
日本では、第二次世界大戦後の1958年に初めて販売された。この当時、すでに世界36カ国で販売されていた。1960年にはコカ・コーラ社によって商標が買い取られた。1961年、アメリカ国内では「7 Up」に対抗するため、ドイツ国内で販売されていたファンタクリアレモン味を「スプライト」という名称で販売した。現在は世界180カ国で販売されており、最も消費量が多い国はブラジルである。