最近、日本では格差社会が叫ばれている。
しかし、戦前は今を遥かにしのぐ超格差社会だった。
特に戦前農民はひどかった。
生活するためには休みなく四六時中農作業や家事をしなければならない。
貧乏から脱出するために勉強をしようにも、労働が大変でそんな時間はないし、貧乏だから進学するお金もなかった。
頑張っても年収は100万円にも達しないほどで、食べていくのがやっと。
そんな農民たちはついに我慢の限界に達し、行動を起こす。
「小作争議」で彼らは自らの権利や自由を勝ち取っていく。
戦前の農民たちの命を懸けた革命が、実は現代社会の私達にも脈々と受け継がれている。
たった70年前の日本で「梶子」とよばれる子供たちが奴〇のように働かされていた。
終戦直後以前、瀬戸内海の漁村では豊漁である反面、人手不足に悩んでいた。
一方、四国の山村では常に貧困にあえぎ、都市部の感化院なども多くの孤児等を抱えるも財政難に苦しんでいた。
そこで、貧しい山村や孤児たちを漁村で引き取り働かせる方法が古くからとられていた。
しかし漁村での生活は優しいものではなかった。毎日朝早くから夜遅くまで重労働をし、預けられた家では完全に身分を分けられ座敷にも上がれなかった。
過酷な労働と酷い扱いに耐えかねて脱走する少年達や、言うことを聞かないので檻に閉じ込められ命を落とす事件まであった。
それでも貧しい山村で食べられずに苦しませるくらいなら、辛いけど食べていける漁村に預けるしか方法がなかった時代だった。
明治~大正にかけて『残飯屋』という飲食店があった
当時、東京や大阪といった大都市には貧民窟(スラム街)があり多数の貧しい人々が暮らしていた
彼らの胃袋を満たしたのは残飯屋と呼ばれる「安い・早い・うまい」の三拍子そろった飲食店
陸軍や海軍の士官学校は3度の飯のたびに大量の残飯が発生するが、その残飯を格安で引き取り、格安で貧民に提供する
現在の日本では絶対に許されない残飯屋とはどんなものだったのか?
そして当時の貧民窟・貧民たちの暮らしとはどのようなものだったのか?
教科書には載らない明治~大正期の大都市の暗部の生活をゆっくり解説します