7,8年程前に、霞が関の官庁街の一角にある寿司店で珍しい食べ物を味わった。地下鉄・東京メトロ銀座線の虎ノ門駅から至近距離にあるその店は、月に一度の割合で顔を出していた。縁あって知己を得た或る会社のA社長夫妻と、近況報告がてら鮨をつまみ、酒を酌み交わしながら雑談をする名目の定例会(飲み会)だった。
ぺーぺーのサラリーマンとの月イチ定例会を催すA社長御用達のこの寿司店。近くの霞が関に勤める官僚や、この国の将来を担う有能なエリート達が贔屓にしていた。
店の大将は以前、築地の老舗寿司屋で長年に亘り板長を務めた生粋の寿司職人。板前修行中の若手二人の他、おしゃべり好きなおばちゃんスタッフ二人を合わせ5人で切り盛りする、アットホームな
雰囲気漂う人気店である。
世間話に始まり興が乗ると政治、経済、文化と多様な話題に移る。と、ここまでは高尚な会話で進むのだが、アルコールの量が増える
につれて「下ネタ」が連発する。一気に低俗なレベルに陥るも、なるべく下品にならないようウイットとユーモアをうまく絡めて「大人の会話」にするのが暗黙のルールだった。
最初は周りのお客さん達に御迷惑を掛けないよう、定位置の入り口付近のカウンターに陣取り慎ましく飲み始めるのだが、いつの間に
か、カウンターの横に並ぶ常連さんを巻き込んでの大宴会に発展するのが常だった。
大将とA社長とは、20年来の古い付き合いの間柄。通常の寿司ネタを食べ飽きたA社長の舌を満足させる為に、たまに希少性の高い珍しい食材を築地で仕入れていた。その日の裏メニューに登場したのは初めて見る「蛸の卵」。滅多にお目に掛らない知る人ぞ知る珍味である。
細長く半透明でちょっとグロテスクな生の卵。「新鮮なのでそのままワサビ醤油でどうぞ」と、大将に勧められるまま蛸卵デビューと相成った。ねっとりした白子っぽい食感で「感動するほど旨いものではない」が正直な感想であった。
味覚は人それぞれなので、何とも言えないが、一生に一度味わえるかどうかの貴重な体験であった。後で大将が言うには「茹でると花が開くみたいになり、もっと弾力性の歯ごたえもあって旨いよ」。
ならば次は是非、茹でた蛸卵を頂いてみたいものである。「ただ、オレにはウジ虫にしか見えないが」と大将は言葉を付け加えた。ならば「ウジ虫ならご遠慮したい」。