
大名火消
第3代将軍の徳川家光は『奉書火消(ほうしょびけし)』という消防組織を設立します。
しかし、この組織には問題がありました。
火事発生
↓
老中名義で「奉書(命令書)」を用意する
↓
各大名に「奉書」を持った使者を出す
↓
「奉書」を受け取った各大名は家臣を引き連れて現場に向かう
日本の組織の悪い部分がでています。
火事という一刻も早く対応しなければならない時にこれはないですね。
しかも、家臣は常時消化の訓練をしていなかったと言います。
嘘みたいな話ですね。
今で言えば消防が来たけど、火も消せなかった的な
話です。
事実
1641年(寛永18年)1月29日、江戸で『桶町火事』が発生します。
『奉書』を用意して大名を招集、という悠長な事をやったからか、
将軍家光が現場で陣頭指揮をとるも結果的に江戸の大半を焼いてしまいます。
幕府は「さすがにこれじゃマズい」と感じ、
新たな制度『大名火消(だいみょうびけし)』を作ります。
これは、幕府が選んだ6万石以下の大名16家を4組にわけ、
1万石につき30人を出させ、
1組あたり420人を10日交代で消防にあたらせる、という制度です。
基本的に(大火の時以外は)『奉書』がなくても大名が直接指揮して消火活動ができたため、
『奉書火消』よりは迅速に対応できました。
しかし、また別の問題が発生します。
消火を担当する大名は、
火事が発生するたび家臣たちに華麗な火事装束を身につけさせ、
行進して現場に向かいました。
火事装束は次第に派手になり、見物客も多くなり、
火事は一種のイベントの様相を見せました。
消火の最中に火事装束を着替えさせる大名まで現われ、幕府は頭を悩ませます。
まるでコントですね。