
北条政子が悪女と言われるようになったのは政治的な動きにあります。
1193年、北条政子は源範頼に謀叛の疑いがあると源頼朝に讒言をします。
源範頼は源頼朝の弟で、源頼朝の弟の一人である源義経はすでに討伐されていました。
源範頼は源頼朝に臣従をしていましたが、
猜疑心の深い源頼朝は北条政子の言葉を信じ源範頼を殺してしまいます。
また、源頼朝が亡くなった後、2代将軍になったのが源頼家。源頼家は北条政子の実子ですが、
将軍就任後は北条家よりも比企家を重視。
これに対して北条家は1203年に北条政子の名で比企家を討伐。
源頼家はこれも北条政子の名前で出家を命じられ将軍の座を追われ、最後は暗殺をされています。
源頼家は不肖の息子で鎌倉幕府を束ねていく力はなく、さらには母の実家である北条家も軽視をした。
源頼家が討伐される理由はいくつもあったようですが、北条政子は息子の源頼家を守ることなく死に追いやって
しまいます。
この事件は、北条政子を悪女とする一つの理由になったでしょうね。
さらに3代将軍源実朝が暗殺され、母である北条政子が実質的な統治者となり「尼将軍」と言われるようになった
とき。
1221年に承久の乱がおこります。承久の乱に勝った北条政子は、敵対した後鳥羽上皇に対して隠岐の島への流罪
を命じます。
時の上皇を流罪に追い込んだ北条政子は、後世まで批判を受けることになります。
こうしたことが、北条政子を日本三大悪女の一人に数える要因になったものと思われます。