
淀殿の父は戦国大名の浅井長政、母は織田信長の妹であるお市の方です。
織田信長は天下統一を目指していたため、その一翼を担うのが浅井長政のはずでした。
しかし、織田信長の強引な政策もあり浅井長政は織田信長と敵対するようになり、
その後、小谷城において人生で最初の落城を経験します。
しかし、本能寺の変で織田信長が倒されると人生は一変。
母のお市の方が織田信長の重臣である柴田勝家に嫁ぐことで、淀殿も行動を共にします。
織田信長が亡くなった後、織田家の後継者争いが始まり、織田家の重臣もそれぞれの行動を始めます。
このとき、敵対関係になったのが柴田勝家と後の豊臣秀吉。両者は賤ヶ岳の戦いで激突し、
敗れた柴田勝家は居城の北の庄城で自害をし、母のお市の方も行動を共にします。
淀殿は助かったものの、ここで淀殿は母を失い、人生で2度目の落城を経験します。
父も母も戦いで失った淀殿ですが、さらに人生を大きく変える出来事に遭遇します。
それは織田信長亡き後、天下を統一した豊臣秀吉の側室になったこと。そして、子を授かったことです。
豊臣秀吉には正室の北政所がいました。また、権力を握るとともに多数の側室を持つようにもなりました。
ところが、正室にも側室にも子ができることはありませんでした。
それが淀殿との間には子を授かることができた。1人目の男児は早世したものの、2度目の男児は成長して豊臣秀頼となります。
淀殿は豊臣秀吉の側室。豊臣秀吉が在世中は、政治の表舞台にでることはほとんどなかったと言われています。
しかし、豊臣秀吉が亡くなると、淀殿は側室ではあっても後継者である豊臣秀頼の生母。次第に権力を握るようになります。
もっとも、豊臣秀吉が亡くなりわずか2年後に起こった関ヶ原の戦いで、実質的に豊臣家は一大名の地位に転落をしていた思われます。
実権を握った時には、すでに天下は徳川家のもの。淀殿が天下の中で力を奮う機会はなかったようです。
しかし、その自覚が淀殿自身にあったかは定かではありません。
もしかしたら、豊臣秀吉在世中の栄華がそのままに続いていると思っていたのかもしれません。
徳川家康は江戸幕府を起こし、天下人たる権力を誇示するようになります。
そして、一大名の地位に転落した豊臣家に対して、さまざまな要求を突きつけ豊臣秀頼を臣従させようとします。
徳川家も、それを取り囲む諸大名も、それは時代の流れであることを悟っていました。
ただ、淀殿だけが過去の栄光にすがり続けるようにこれを拒否。
徳川家康自身は、豊臣秀頼が臣従するのであれば無理に豊臣家をつぶす気はなかったとも言われていますが、
全てを拒否し続ける淀殿と豊臣秀頼に業を煮やし大坂の陣。
結果的に淀殿と豊臣秀頼は大坂城で自害をしたと伝えられています。
一度目の落城で父の死。
二度目の落城で母の死。
そして、三度目の落城で淀殿は自らの死に向かい合うことになります。
淀殿は、日本三大悪女の一人に数えられています。
その理由はいくつもありますが、大きなところでは天下が徳川家に移ったことを現実視することなく豊臣家を滅亡に追い込んだ。
これが最大の理由ではないでしょうか。
因みに、淀君の淀城は「淀古城」こちらのお城と関りがあるのだそうです

淀古城の復元図です