アホだカスだと思われている私ですが、実はそうでもなかったのです。
小学校の頃の通信簿を見てみると、悪いのは主要科目だけで、音楽、図工、体育は5段階評価で3~5をもらっています。
うちの奥さんが、この私の通信簿が好きで大事に保管しているのです。迷惑極まりないのですが、愛おしそうに眺めるのです。
当の本人は、4と5しかない通信簿。学生時代、ずっとそれで通したのだから、珍しさ半分もあるのかもしれません。私としては首根っこ引っ掴まれているようなものです。
3度ほどですが、1から5までが並んだ成績表をもらったことがあります。
「これは、凄い!」と言って、見るたびにひとり悦に入るのです。
事実、これは珍しく、後々落ちこぼれの友人は大勢いましたが、1から5まできちんと揃った通信簿は、他に会ったことがありません。
小学校の評価なんて、担任の依怙贔屓があって当たり前です。
今は知らないけども、シビアに成績だけで点数を決めるのじゃなくて、むしろ姿勢こそが大事だったように思います。
現実に、勉強熱心だけど運動が苦手だった友は、体育はいつも4でした。
教師も人の子、真面目な生徒へと働く感情だとしたら至極当たり前のことです。一切、恨み言はありません。
こうして人の感情まで含めての成績の評価なら、私の通信簿は確かに不思議な結果だったのです。
注意散漫児だった私が、先生に気に入られる要素はありません。
1をつけられる生徒ならば、良くて3までしかないのが暗黙のルールのようなものです。
当時、何も関心がなかった私ですが、時を経てこのカラクリに気づくのです。そして、ほぼ確信を持っています。
本題に入る前に、すでに長くなりました。でも続けます。
できるだけ、はしょりながら続けます。
小学4年生の2学期に転校をしました。
それと同時に、黒板に引っ付いていた指定席ともお別れです。
逆に与えられたのは、一番後ろの席でした。席が変わったからといって、私の成績が良くなるわけではありません。
ただ、行儀は少し良くなりました。
隣の女子が、何かと面倒をみてくれたのです。
さらに不思議なことに、席替えしても私たちは、いつもお隣だったのです。
歯ぁ磨けよー、風呂入れー、みたいに世話をやくのは、先生からお目付け役として指名されていたのかもしれません。
学年が上がり、見張り番とはクラスが分かれました。
それでも、机の中を整理してくれたり、朝々ハンカチを渡してくれたりと変わらず優しくしてくれました。
あまりに出来の悪い私に、母のような情が湧いていたのでしょうか。
女子の友達からは、「○○ちゃんのおかげやでー。しっかりしぃー!」と腹の立つことをよく言われました。
今を生きる少年には、それが何を意味することなのかは分かりません。
大小起こした問題を、一生懸命にかばってくれていたことは後になって気づくのです。
嫌われたばかりでない評価は、実に友情に救われた結果であったのです。
中学生になり、次第に話もしなくなりました。
私だけだけじゃなく、男子、女子とはっきりとグループも分かれ、色気づいていく中にも、滑稽でぎこちない一時期を過ごした友人が大半だったのではないでしょうか。
私は、そんなことよりも大都会への興味ばかりが頭を占めて、時が過ぎていくのを今か今かと待っているような、これもまた滑稽な中学時代でした。
何度か、友達を介して誘っては来てくれたのですが、夢見る私はテキヤのおっさんと話していることの方が楽しかったのです。
また、世話役はクラブ活動にも熱心で、ソフトボールのキャッチャーでした。県優勝するくらい頑張っているのを見るに、決定的な私との違いを感じずにはいられなかったのもあり、ことごとく誘いを断ったのかもしれません。
おかげで溝は開いていきます。
半年ばかりの猛勉強の末、なんとか普通科高校へ進学できました。
また同じ学校です。と言っても、すでにすれ違っても挨拶する程度の関係でした。
私は、このときになって初めて知ったのですが、その子はとても優秀な子でした。
高校最初のテストで県3位。後もずっと30位平均の成績でした。
このお姉さんが優秀で顔だちも綺麗だったことは私も知っていました。
が、同じ小学生からの女子で全国トップを何度もとるような天才がいたので、陰に隠れて気づかなかったのでしょう。とにかく、初めて文武両道の秀才と知ったのです。
そう思うと、まぶしくて、ますます近づけません。
方や、入学初日で謹慎になった問題児。子供の頃、仲良しだった記憶を失くしてくれ!と言われれば、是非ともそうして差し上げたい。
開く溝に埋まる余地は考えられませんでした。
高校3年生にもなると、それぞれの志望がはっきりとしてきます。
男子は大阪、東京を目指す者も多かったのですが、まだまだ女子は地元志向が強かった時代でした。
全国トップをとりながらも、地元の医学部を目指す女子は、東京→海外しか頭にない私に何度も進路の悩みを持ちかけてきました。
やはり女子は親の意向もあり、なかなかに踏ん切りがつけられないのが実情のようでした。
しかし、人の心配をしている余裕は私にはありません。
当然のようにまたまた落ちこぼれた私は、秋風に追い立てられ焦らされていたのです。
そんな肌寒さを感じ始めた日の放課後、偶然にばったりと廊下で世話役とすれ違いました。
思わず、
「一緒に東京に行こ」と声をかけたのです。
教育学部が志望でした。
私の学校も、本大ほどじゃないがマンモス校。教育学部もあれば女子の多い文学部もあります。いや、私と同じなんて勿体ない。それ以上に、いずれ地元に帰るにしても才覚を埋もらせてしまう方が哀しい。
「○○ちゃんは変わらんねぇ」と笑います。
久しぶりに子供の頃のちゃんづけで呼ばれました。
「いつも遠いとこばっかり見てる。いつも助けようとしてくれる」
「・・・・?助けることはできんけど、行こう。面白いこといっぱいあるって!」
軽く首を振りながら、成績トップの子と残ると言って去っていきました。
二度と、話することもないだろうなぁ、と思いながら見送ったのです。
数年が経ち、浮浪生活に一段落つけて就職しました。
新たな夢が芽生え、4~5年頑張って貯金しようと思ったのです。
万年金欠、明日の飯に困ってから働く私は、だから仕事も真面目です。おかげで、わりと周囲から評価されます。
しかし、人の評価なんてどうでもいい。少しでもお金ができれば腰が浮ついてどうしようもなくなるのです。
貯金と割り切りながらも、死んだような生き方に思えてきて、次第にくさくさくしてきます。
蒲団と電話、こたつしかない殺風景な部屋に、洗濯したものか、これから洗うものか分からぬままに散らかり、転がる一升瓶の数だけが増えていきました。
働き始めて1年経とうかという秋、いつものように酒を飲んで帰ってくると、部屋が綺麗に片付いています。
部屋を間違えた!と急いで飛び出すも、それほど酔っちゃいないことに気づき、しかし、しげしげとわが部屋を外から眺めていました。
当時の部屋が5Fのエレベーター前。呆然と立ちすくんでいると、エレベーターの扉が開き、買い物袋を抱えた見覚えある女子が、「おかえり」と笑いかけます。
「おせっかいやきに来たよ」
「迷惑です」
「小学校の頃、我慢できたんやし、大人の今なら簡単な我慢でしょ!一緒に夢みようと思って出てきたの」
夢といっても私のは、人を幸せにしたり金をもうけたりと立派なものじゃありません。人から見ればただの酔狂。
「あんたは、すぐに泥船に乗りたがるから、世話焼きが必要なの!」
どちらが損をしたい性分なのか?
この泥船をずっと支え続けてくれています。
痩せた無精ひげのおっさんの面倒を見るのが楽しいと言ってくれます。
しかし、その苦労がたたったのか、5年ほど前に患い長い入院をしました。
そして、2週間ほど前よりまた思わしくありません。寝ている時間が増えました。
寝てばかりも暇なのでしょう。ときどき、私の恥ずかしい通信簿を引っ張り出しては、ひとり喜んでいます。
大事にいたることはないはずですが、これ以上心身すり減らしてほしくありません。
私ももっと時間を作ろうと思います。
年寄りの日が過ぎて、少し肌寒くなりました。
受験に追われた秋風を思い出し、二度と会わないだろうと感じた暮れゆく秋を懐かしみながら、一緒に色づく公園を散歩したいと思いました。
夢は小さくなりました。
一足先に白髪頭になった私の、ささやかな願いでもあります。
ふーっ!!嘘を並べるのに疲れたので寝ます。