「花見」というと 桜の木の下にビニールシートみたいなのを敷いて
お弁当を食べたり 宴会したりのイメージがありますが
実際 そいうのをしたのは 人生で2,3回です
忘れられないのは
私の誕生日に 親友と日帰り京都
哲学の道を歩いて見て回ったとき
その日が 1番の見ごろで お天気も最高だった あの時の桜が最高な「花見」桜見だったな
もう7年前になりますね
最近の事の様な気がするけどね
どうして日帰りにしたかって言うとね
その京都日帰り春の旅行の 2年前だったかな…
神戸のイルミネーションを見るために 旅行社で宿など決めたその日に
義母が骨折して入院
結局 行ったけどね
親友が キャンセルしていいと言ったけど 何か意地で行きましたよ
それがね 骨折して病院に連れて行っているときに
「旅行取りやめな」って 義母が言ったの
「ごめんね」とかもなく 命令口調だった それにカチンときてね
あの頃はまだ 義母 体も心も強かった
今とは 別人のだわぁ
今は 義母 体も心も弱っている
今年の「花見」桜見は 入院している義母の面会の行き返り
桜並木が奇麗だった
もう葉が出て 花弁は今日の雨で全滅
本当はね 実家の母を助手席に乗せて 「花見」桜見に行きたかったの
だって、母は多発性骨髄腫 心臓が悪く お腹に動脈瘤もある
来年の桜の開花 見ることができるか不安
ディサービスの行き返りに見たから良いよ
 ̄(=∵=) ̄は 今 忙しいから無理しないで
そんな言葉を聞くと 余計に母が不憫で イライラしてしまう
今日もね 病院に行く前に 親友と短い時間だったけど
お茶してお互いに愚痴を言い合ったの
親友のお姑さん 歩く事が出来なくて 今、施設に居るの
親友が言ったのよ
今はね 弱っているから 可哀そうにって思って 週に数回
あれこれ買って持っていくけど
過去に言われた 意地悪な事 忘れることができない
後何年これが続くのだろうって 不満に思うこともある
親友は 私の様に同居していないけど、いつも呼び出されて
お姑さんに 振り回されていた
私より遥かに優しい親友なんだけどね
私も 嫌な思い出は幾つもある
私たちはいつも話す
舅姑が遠方にて 年に1,2度会うなら 優しくできるよね
そいう暮らしをしている人が 私たちの話を聞いたら
随分意地悪な嫁だと思うよね…って
独身の頃 好きな様に 花見に行けたのに
今ほど 桜に興味なかったなぁ… 今ほどというより 殆ど興味なかった
見たら奇麗って思ったけど わざわざ何処かに行き桜を見に行くことはなかった
五木寛之さんが講演で言っていた言葉
高齢者のお婆さんが あと3年生きれば充分 と言ったので
それだと 桜の開花 3回しか見ることが出来ませんね
と言うと 考えこまれたとか
年数と回数 全然感じが違いますよね
それがあるからかなぁ?
今年の桜 母と一緒に見ることは出来なかった
でも、母が ディの送迎で 桜を見たのだから
それで 良しとしなければ…
京都日帰り旅行での桜の様に
数年後 病院の行き返りに見た桜を 私は懐かしく 優しい気持ちで
思い出すことが出来るのだろうか?
そして そうこうしているうちに
後 何回 花見が出来るかな?って切実に思い始めて
あぁ、今年も桜を見ることが出来て良かった
来年は どうなんだろうなぁ…って思うのだろうなぁ
父がね11月に死んだのだけど その年の3月に  ̄(=∵=) ̄に言ったの
桜だけじゃないか?散るときも奇麗なのは
隣の柿の木の枯葉が うちの庭で舞うと 気分良くないけど
隣の桜の花びらが うちの庭に沢山落ちていても 悪い気はしない
奇麗だって思える
「花見」は桜に限ることはない 藤でも チューリップでも良いのだろうけど
私にとって 桜見 は特別だな…