尊敬していた中村哲医師が道半ばでお亡くなりになられました。
第一報は命に別状はないとのことだったので安堵していましたが、本当に残念でなりません。
弱き者のために尽力し、一生を捧げたのに何故なんだ・・・と不条理であり受け容れ難いことです。
自分も身内や友人など困っていた時に助けたにも関わらず、理不尽な仕打ちを受け「何故なんだ?」ともがき苦しみました。そのときにイレーナ・センドラーさん(ユダヤ人ゲットーから大勢の子供を救出、仲間に裏切られゲシュタポに捕まり、両手両足骨折などの拷問を受ける)と
ヒュー・トンプソン氏(ベトナム戦争時、ソンミ村での虐殺事件をヘリから目撃、米兵と村民の間に着陸後、味方に銃口を向けることを厭わず村民を助ける、帰国後、裏切り者扱いされ、殺人脅迫電話・玄関に動物の死骸を置かれる・バーに行けば無視され客に疎外され、店員と二人になるなどの冷遇を受ける)のことを知り、
(自分のこととは比較になりませんが)他人・弱者を助けるなど、善きことをしても理不尽な目に遭う人はいるんだ、不条理だけれど、それでも傍観者ではいられない人はいるのだ。と納得しました。
神も仏もないものか・・・と思いますよね。善きことをしても良いことはありません、逆に酷い仕打ちを受ける。見て見ぬ振りや悪事をしてもその場でバチは当たらない。そう、それでも良心に従い善きことを貫けるかが試されているのだと気づきました。
もしも目前で神様が善人に褒美を与え、悪人を罰すれば、皆善行をし悪行を慎むでしょう。しかしそれは見返りを期待しての行いであり責任主体ではありませんよね。
褒美も罰もなくても良心に従った行動ができるのか?自らの本性・生き方が問われます。
この世の中楽しんだもの勝ちと、享楽的に生きる人もいますが、この地上にいられるのは瞬きするほどのほんの僅かな間。鳥が地上に舞い降り、そして飛び立っていくようなもの。
であれば、自分で自分を律して魂を磨き、弱き者に手を差し伸べ、少しでも善き世の中にして次世代に遺したいと思います。
最後に心よりお悔やみ申し上げます。