カーネーション 
(英: carnation、学名: Dianthus caryophyllus L.)はナデシコ科ナデシコ属の多年草。日本での別名にオランダナデシコ、ジャコウナデシコ(麝香撫子)、オランダセキチクなど多々あり。
原産は、南ヨーロッパおよび西アジアの地中海沿岸と言われている。カーネーションという名前の由来には諸説あり、肉(ラテン語:carn)の色の花という説や、ウィリアム・シェイクスピアの時代に冠飾り (coronation flower) に使われてこれが転訛したなどの説がある。
地中海沿岸から西アジアの原産ゆえ、古くから可憐な花容を愛された。イスラム世界では、バラやチューリップと並んで愛好された植物である。イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため、モスクなどの装飾には人物および動物表現が忌避され、アラベスクという幾何学模様や草花の文様が使用された。このアラベスクの意匠に、カーネーションの花はしばしば使用されている[7]。
17世紀にはイギリスやオランダで300種以上の品種が見られ、フローリスト(園芸愛好家)たちによって栽培され、大きく進展を見た。18世紀を通じて品種が増え、やがて「ショウ・カーネーション」が生まれ、これが19世紀の主流となった。この花の特徴は花弁の縁の鋸歯がなくなり、花弁の配置を幾何学的な整形に近づけたもので、現代のカーネーションとは異なっている。この時代にはまだバラの品種改良もそれほど進んでおらず、カーネーション、オーリキュラ、チューリップは時代の先端を行く園芸植物であった。
19世紀中頃になるとフランスでの育種が進み、1840年にダルメイスが「パーペテュアル系」を作出すると、さらに1857年にはやはりフランスで「マルメゾン系」が誕生した。これらが現代の営利用カーネーションに繋がっている。
母の日にカーネーションを贈る風習は、20世紀初頭、米国のアン・ジャーヴィスが亡母に白いカーネーションを供えたことに始まる。
2013年には、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)花き研究所などがカーネーションのゲノム解読に成功したと発表した。従来ない色や病気に強い品種の開発に応用できると期待されている。
日本には江戸時代初期以前に輸入され、アンジャベルまたはアンジャ(蘭: anjelier、tuinanjelier)と呼ばれた。享保年間に出版された、『地錦抄録』(1733年)には、徳川家光の時代正保年間にオランダからカーネーションが伝来したと書かれている。しかし、この時には日本に定着せず寛文年間に再伝来し、14種の品種が紹介された。この時期に書かれた『花壇綱目』にも、「あんしやべる」の名で記録されている。宝暦年間の1755年に著された『絵本野山草』には、ナデシコなどとともに紹介されている。
その後、1909年(明治42年)に米国シアトルに在住していた澤田(名不明)が帰国の際に「ホワイト・エンチャントレス」「ピンク・エンチャントレス」「ヴィクトリー」「ローズ・ピンク・エンチャントレス」など他にも2-3の品種を持ち帰ったが、栽培法に精通しなかったために生産化には至らなかった。後に土倉龍治郎が近代的栽培技術や体制を構築し、新しい品種を生み出して日本にカーネーションを定着させ、この業績によって「カーネーションの父」と称されるようになった。土倉は犬塚卓一と共に1936年(昭和11年)、名著『カーネーションの研究』(修教社書院)を上梓している。
現在、カーネーションはキク、バラと並ぶ生産高を誇る花卉植物であり、ハウス栽培で周年供給している。しかし、最も需要が伸びるのは母の日の5月前後である。また、切り花のイメージが強いが最近では鉢植えの品種も普及している。
カーネーションの市町村別生産額は、長野県と愛知県が高い。
国内生産量と、中華人民共和国やコロンビアなどからの輸入量は2012年時点でほぼ同程度である。農研機構は国内のカーネーション栽培を支援するため、見た目の美しさや切り花にした後の日持ち、萎凋細菌病への耐性などを増す品種改良を進めている。